学生の証し

■牛飼いから羊飼いへ

2007年度卒業生  今井靖清

 1975年東京生まれ、東京育ちの者が、農業をする。このことは法律的に見て非常に困難なことです。それが、周りの人に恵まれ、幸運にも恵まれ、離農跡地を一括引き受け、長年の夢であった酪農を、北海道東部の中標津で始める事になりました。嬉しかったです。

 このときわたしは、わたしの人生に神が働いていることを少しも知らなかったのです。

 夢が現実になり、6年後の1981年9月に受洗し、28年間酪農を続けました。この間、結婚、離婚、経営の危機を経験し、神の取り扱いを受けました。神がこのわたしに一番良い方法を持って導いてくださいました。

 1985年、‘百万人の福音’を通してドイツ語を学ぶためにドイツにいた沖縄出身の家内と、一年の文通をへて結婚しました。家内は結婚後、人工透析を受けるようになり、子供は預かりませんでした。

 1999年、北海道の教会が無牧になり、毎週のメッセンジャーを手配し、接待をする役目になり、宣教師、牧師、伝道師の方々の人柄や語ること、何気ない行いに魅力を感じ、以前から神様の御用の少しでもお手伝いが出来ればと思っていたものが、強くなってきました。デモですね、やっと手に入れたものを手放すことはできない。その思いは強いのです。

 2002年の9月、家内が「靖清さん、私55歳の誕生日になったら、一切手伝いません。」と言われ、家内は、わたしの献身を願っていたようですが、人工透析の治療をうけながら、少しでも手伝いたいとの想いに、限界を感じていたのです。新任の牧師先生も、私に献身の思いがあることを聞いていましたので、「今井さん、そろそろ康子さんのことを考えたらどうですか」と背中越しに話されたことがありました。

 私は決断をしました。献身はしない。あと、最低10年は酪農がしたい。その後も酪農を続ける目的を持って、冬の除雪、夏の牧草収穫作業を一人で出来るように借金をして、機械化しました。

 翌年3月、家内が、吹雪の中やっとの思いで透析の治療を終えて帰ってきたのに、また病院に行くと言うのです。透析用の針を刺す血管がつまって早く処置をしなければならないのです。吹雪も収まり、何とか病院に連れて行き、処置を受けている病院の待合室で、まず、酪農を中止する決断をしました。神様は相手の身になって考えるように、私を変えていたのかもしれません。酪農を辞めてどうする。伝道者として歩めないか、御言葉があれば献身しよう。半年前に献身はしないと決めた、落としたものを拾うようなものです。背中をポンと押し出す出来事です。

 そして6月、神学校に行って牧師として神に仕えたいと思っている決意を、農協の担当職員に話しました。酪農の中止を話してから農場の処分が私の思いを超えた速さで進み、不思議に物事が順序正しく20日間で処分が済みました。今までに例がないそうです。神が働いているのを感じるのです。

 しかしあまりの速さに両腕をもぎ取られた思いがしてつらかったのも事実でした。牛舎に牛がいなくなっても、風通しをするために窓を開けに牛舎にいきました。牛がいなくなって3日目のことです。ものすごい寂しさに襲われました。両腕をもぎ取られると言う言葉の意味を実感しました。手放した牛を全部買い戻してもとの状態にしよう、そうでなければ自分がつらい。本当にこれでよいのだろうか。不安がありました。

 その様な状態でいたある朝、創世記6;22 ノアはすべて神が命じられたとおりに果たした。デボーションの時、このみ言葉が与えられ不安がなくなり、‘そうだこれでよいのだ’神の働きを確信しました。   『そうだこれでよいのだ』

 今度は住む場所です。9月いっぱいで北海道の場所を空けなければならない。山梨県に日本一日照時間の長い明野村がある、そこに住めないか、始めに教会を探し、次に住宅を探そうと考えていた。その時、創世記8;12 彼はさらに7日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。この頃ズッート創世記がデボーション箇所でした。デボーションのときこの箇所が与えられました。ここの解説は、‘鳩は聖霊を意味します。聖霊はどこに行ったのでしょう。聖霊はあなたの先に行って準備をしているのです。’とありました。

 そのときちょうど、二階から家内が降りてきました。そして、『靖清さん、今御言葉が与えられたの。祈りの祭壇を整えなさいと。だから教会をまず探して』 与えられたなすべきことは事は同じでした。わたし達の礼拝の場所を整えることです。

 すぐ行動を開始し、そして今、現在も山梨県の日本基督教団韮崎教会に籍を置き、教会まで車で5,6分の所に住宅を借りることが出来ました。地縁、血縁の何も無いところに導かれ、何の不安や障害が無く、ひとつの流れに乗るようにスムーズでした。こうして教団外のものが、教団の教会に導かれたのです。

   今度は神学校です。東京聖書学校を下見の時、背中にビビッと走るものがあり、‘私の学ぶ学校はここだ’霊的なものを感じました。

 しかしまだこの時、明確な召命の御言葉がありません。北海道を離れる2週間ほど前、モーセが神の前に申し上げた、出エジプト記3;11「私はいったい何者なのでしょうか。」の祈りをぶつけました。神様、決定打がほしいのです。ここまで導かれたのですから、その様な想いです。その時、前々から私の心の奥にあった、「私の羊を養いなさい。」ヨハネ21;17(口語訳聖書)のみ言葉が強く浮かび、私を捉えたのです。

 酪農家として病気を持った妻を与えられたことに恨みを抱いたこともありました。しかし‘あなた方は、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分の体を持って神の栄光を現わしなさい。’(コリント第一6;20) と語られる聖書のみ言葉に、大事なものは何かを導かれ、神はマイナスをプラスにし、神様の計画を私たちになさしめたと信じることが出来るのです。この後もこの神様の計画に従っていきたいと願っています。

■救いの証し−1 (全5話) (出生〜小学校時代編)

大矢真理 (2006年度 4年)

 私は1965年2月に日本基督教団大塚平安教会の教会員である両親の長男として神奈川県に生まれました。

 父は救世軍の集会に友人に誘われ、その後聖契教団の教会で信仰を持ちましたので、父の信仰の土台にはホーリネスの信仰があります。父は養子として大矢の家に来ましたので母と結婚の後大塚平安教会に転会しました。母は小学校の先生の中にクリスチャンの先生がいて、クリスマスの祝会に誘われた事がきっかけで教会に行くようになりました。母が言うには美味しい食べ物が沢山食べれるよと食べ物につられたと言っておりました。父方、母方共に祖父祖母はクリスチャンではありませんので私と、妹(1967年生、高校3年生の時に洗礼を受けました)はクリスチャンとしては2代目になります。

 小さい時から親に連れられ教会に行き、幼稚園も教会附属の幼稚園に行っていましたので小さい頃は教会に行く事に何ら抵抗が無かったと思います。教会は神奈川県綾瀬市にありましたが私の実家は隣の座間市です。小学校に入ると教会学校での友達は学校にはいませんでした。
 私の小学校の同級生には名字が『大矢』の同級生が20名近くいました。小学校に入学した時クラス編成の模造紙を見ても男性の所に私の名前が見当たりません。1年5組の女性の所に『大矢真理』の名前がありました。『まこと』ではなく『まり』として私は最初小学校に入学しました。親からキリスト教からこの名前をつけたと聞いていましたのでこの出来事が最初の反キリストになっていった最初の出来事でありました。ちなみに中学校入学の時に市から「貴方は栗原中学校に入学する事になります」と通知が来たのですが女性として来ました。

 小学校に入学の後、回りの友達と我家が違うと言う事をもう一つ経験いたしました。日曜日に友達と遊ぶ事が出来無いという事でした。友達を教会に誘えばいいのにと思われる方もいると思います。実際に両親に聞いた訳ではないので確実ではありませんが、市が隣の市であった上、私の実家は座間市の外れの方で小学校迄は20〜30分くらいかかり家から遠くにある教会に子供が友達を誘う事にブレーキをかけたか、田舎で古い考えを持った方が非常に多い土地ですので遠慮をした。このどちらかではないかと思います。キリスト者として伝道をしないのは考えられないとお考えの方もいらっしゃると思います。その様な御意見はごもっともでありますが、ひとりひとりそれぞれが置かれている立場、状況があると思います。両親はその状況の中で精一杯の事をしたのだと思います。

 私の時代にも所謂『いじめ』はありましたが、神様が守って下さり日曜日に一緒に遊べなくてもいじめられる事はありませんでした。しかしどうしても日曜日に友達と遊びたく教会に行かずに友達と遊びたいと言いましたら、一度父から殴られた事がありました。(おそらく父はそんな事は無いと言い張ると思いますが、平手ではなく拳で殴られました。でも全く恨んでいません。感謝しています。)何故友達と遊べないのか。そうだ、教会がいけないのだ。小学校の時にその様に考える様になりました。しかし親から殴られるのが怖くて心の中で教会なんか行きたくない、と思いつつも行動に移すことが出来ませんでした。(つづく・・・)

■救いの証し−2  (小学校〜高校「燃えよ!卓球」時代編) 

 中学に入学して近所の友達が卓球部に入部したので私も一緒に入部しました。部活動と言うのがどの様なものであるかがわからないまま入ってしまいました。日曜日に練習があるのですが真剣に部活動に取り組んでいたわけではなかったので日曜日の練習には出ていませんでした。夏休みに入り近くの中学校に練習試合に行く事になりました。

 1回ぐらい行かなきゃ行けないと思い、参加しました。団体戦が終わった後自由に個人の試合が出来る時間になりました。1年生は団体戦に出られないので個人の試合が言うなれば腕試しです。怖いもの知らずの私は無謀にも相手チームのエースに試合を申し込んでしまったのです。本来結果は言うまでも無い結果となる筈が、私が相手チームのエースを負かしてしまったと言う結果になりました。私は運動に関しては音痴でした。しかし勝つ喜びを知ってしまったのです。それ以来私は部活動に熱中しました。母は息子が運動音痴であることは百も承知です。部活動の顧問の先生に見込みが無いのなら辞めさせてくれと頼みに言ったようですが、私が珍しいサウスポーの選手であった為に育ててみたかったらしく、逆に預けてくれと説得されたようです。

 私は教会の事も忘れ、殴られる心配も無く部活動にのめり込みました。部活動の結果は輝かしいものでありました。中学2年生の夏の大会団体戦で神奈川県第3位、秋の新人戦で個人戦第3位、関東近県でも神奈川に栗原中ありと注目されるようになり、3年生の時は全国大会の優勝候補にあげられる迄になりました。神奈川県大会で優勝の後、関東大会準優勝、全国大会はベスト8迄行きました。高校にも神奈川県では卓球男子に関しては今でも無敵を誇り全国大会の常連校の相模工業大学附属高等学校(現湘南工科大学附属高等学校)に体育特待生として入学しました。

 中学3年の時に父が脊髄分離症と言う病の為もしかしたら半身不随になるかもしれないと言われました。父がその様な状況であればお金のかかる私立の学校に子供を入れる事など出来無いのに、母はアパートを建て、私の進学に心配の無いようにしてくれました。父の手術は成功しませんでしたが、半身不随にはなりませんで後に社会復帰いたしました。当時は両親がここ迄してくれたことに関する感謝の気持ちがありませんでした。教会がある為小学校の頃日曜日に友達と遊ぶ事を認めなかった上、一般的に女性と間違われやすい名前讃美歌からとって付けられ、卓球の表彰式や、病院等で『おおやまりさん』と恥を親がつけた名前で何度もしていたので当たり前だと傲慢にも思っていました。

 神学校に入ってルカによる福音書11章11節以下を読んだ時に父、母の子供に対する愛、聖書に忠実に両親は子供に良きものを与えたのだと思わされました。高校3年間も卓球漬けの生活でした。学校で世界史を習うようになりましたが、十字軍の遠征、30年戦争、ばら戦争があったという事を知ったり、反抗期でもありましたが西洋の歴史がキリスト教の歴史であると言う事を両親に言われたりして、ますますキリスト教が嫌になりました。進学を考えるとき反キリストになる事を学びたいと思いました。反キリスト=仏教と考え中国、韓国、朝鮮の事を勉強したいと思いました。父は桜美林大学の文学部中国文学科を受験しなさいと勧めてくれましたが、桜美林大学がミッションの学校であり、私はかたくなに拒否しました。(入学できる能力がまずありませんでしたが・・・)結局運動推薦で東海大学文学部文明学科アジア専攻東アジア課程に入学しました。(つづく ・ ・ ・)

■救いの証し−3  (大学〜社会人前期「燃えよ!ギャンブル」時代編)

 高校入学の時と同じ様に親に対する感謝の気持ちは無かったと思います。

 私の両親共に進学したいのに進学できなかったので子供は意地でも進学させたいと話していましたので大学4年間にかかる多額のお金を払うのは当たり前だと思っていました。
 当時授業料が高いと評判だった東海大学なのに・・・・。

 この頃から教会に関して、キリスト教に関して両親は何も言わなくなりました。私にわからないように影ではキリストに立ち返るように祈っていた事と思いますが、言い争いになることは必然でしたのであえて言わないように両親はしていたのでしょう。
大学4年生の夏にある経験を致しました。全日本大学学校対抗戦(通称インカレ)が京都で開催されました。大学に入学した頃に教会学校に行っていた時の長内敬一(おさないけいいち)先生が東京神学大学に入学して卒業後愛媛県伊予三島市(現四国中央市)に牧師として赴任した事を聞きました。せっかく京都迄来たのだから足を延ばして愛媛に遊びに行きたい。母に言いましたらOKしてくれました。長内先生とお交わりを持つ事でキリストに立ち返ってくれればと考えたのでしょう。

 瀬戸大橋が開通する1年半前の四国へ宇高連絡船に乗り四国を訪ねました。しかし訪ねて私がした事はその地区の青年会の会合でキリスト批判をした上、悪態をついた事だけでありました。四国には私の好きな電車に乗りに行っただけの結果となりました。
しかしその後伊予三島と長内先生の存在は私にとって困った事が起きた時の話を聞いて下さる存在となりました。将来は学校の先生になろうと大学に入学した時に思っていましたが、教師に魅力を感じなくなり、自分の好きな事、旅行や鉄道関係に就職できたらと思うようになり、神奈川県横浜市に本社がある中小の旅行会社に就職が決まり同じ神奈川県内の平塚営業所に配属されました。
旅行会社における10年間は私にとって良い事でも悪い事でも大きな時期でした。添乗員として日本国内47都道府県をすべて行けた事は今でも私にとって大きな財産です。

 しかしこの地において悪しき事を覚える事となりました。ギャンブルです。平塚市には競輪場がありまして、会社の先輩に良く誘われました。初めは断っていましたが、1年程たった時いいレースがあるからと無理やり連れて行かれました。
 折角行って何もしないのも馬鹿馬鹿しいと思い投票券を買いました。ビギナーズラックと言う言葉があり何もわからないで最初に買うと的中すると言う意味があります。私は見事にビギナーズラックを経験してしまいました。

 24歳の時に1人の女性を好きになりました。その方が故郷の北海道の函館に帰ってしまい私は会社への退職願いを胸に函館へ行きました。
 女性の仕事先に伺い、函館駅前で何時に待っていますと手紙を渡しました。一晩中待っていましたが彼女は現れませんでした。

 私は荒れてやけ酒を飲みました。新聞を見ましたら函館競馬と函館競輪が開催されていました。このまま失恋を土産に帰るのもしゃくだから函館市民から金を巻き上げてやろう。勇んで競馬場、競輪場に乗り込みました。帰る日にパチンコ屋でスロットマシーンの儲けを含めて30万程儲けて帰りました。

■救いの証し−4 (社会人中期〜後期「回心」時代編) 

 その時私はこの様に思いました。
 俺は絶対結婚はしない。
 するならギャンブルと心中する。俺の嫁さんは競輪だ。

 この経験以後夏休みの頃には全国に50箇所の競輪場がありましたので北は函館から南は熊本まで全部を制覇してやろうと夏休みごとに計画を立て、男の甲斐性などと言われていた飲む、打つ、買うの生活に溺れていきました。
 競輪場が終わったら、競艇場、次は競馬場、次はオートレース場と公営ギャンブル場を全部制覇してやろう。金と自分の欲求の満足のみが全てであると考え神様の存在など入る隙間もありませんでした。

 阪神大震災が起った1995年に50全ての競輪場をまわりました。最後の競輪場が阪神大震災で被害を受けた西宮競輪場でした。西宮で私は何か魂がぬけた抜け殻のような感覚を覚えました。

 会社の人間関係に疑問、悩みを持った頃でもありました。勤め先を一度退職して8ヵ月後に復帰する道が与えられましたが、旅行会社で行っている事や、人間関係にやはり悩みを持ち、1998年に退職して生活協同組合関係の職場に再就職しました。
 1998年の11月に再就職先の会社の転勤辞令で埼玉県三芳町の事業所立ち上げの業務をさせて頂きました。立ち上げと言うのは非常に大変な業務でありましたが良い経験をさせて頂きました。

 翌1999年の夏に伊予三島の長内先生の所を埼玉より車で訪ねました。車で1000キロ近くの道のりを行ったのは四国内を車で走り回りたかったのと本州と四国を結ぶ連絡橋の尾道・今治ルートと神戸・淡路・鳴門ルートを通りたいと思っただけでした。教会に泊めてもらえばお金はかからない。礼拝は出たくないがただで泊めてもらっているから親の顔もあるし義理で出よう。それぐらいの気持ちでした。大学を卒業して何度か伊予三島を訪ねました。一度は競輪場に行く拠点として泊まった事もありました。日曜日がかぶったら仕方なく義理で礼拝に出ていました。

 しかし今回はいつもと違う展開になりました。

 午後から瀬戸内海に浮ぶ岩城島にある日本基督教団岩城教会の御用に行くことになっていました。私は岩城島という所を知りませんでしたので興味が涌いてきて長内先生に同行する事を願い出ました。長内先生は快く願いを聞いて下さいました。
 今治港から高速船で約1時間の所に岩城島はありました。教会は港から10分ぐらいの少々小高い丘の上にありました。
 島に来て私の目的は達せられました。しかし礼拝に出ねばならないという試練が私には待っていました。教会に行くまでの間4,50人ぐらいの人が集まり、讃美歌を歌って、訳のわからない聖書の話をするんだろうと思いつつ重い足を引きずって教会へ向いました。教会についてすぐに礼拝が始まりました。

 私の想像は見事なまでに外れました。
 私を含めて会衆5名。教会の窓から見える瀬戸内海を見ながら会衆5名の小さな島の教会の礼拝にいる現実に言い表せない衝撃を覚えました。
 瀬戸内海に浮ぶ小さな島にイエス・キリストを信じている人がいる。私の心の支えになっていた反キリストの土台が根こそぎ崩れて行くのがわかりました。

 神様は岩城島の教会の小さな群を通して働いて下さいました。教会に行きなさい。その様に言われる御声を私は確かに聞きました。1999年8月8日のことでした。

 埼玉県に戻る際に長内先生から教会を1度訪ねた方がいい、とアドバイスを頂きました。理由はあう教会、あわない教会があるからとの事です。私は日曜日の出勤が月に2,3度ありましたので両親が所属している日本基督教団の教会で、住んでいる上福岡から東武東上線で通える範囲で夕礼拝をしているという条件の下で教会を探しました。

■救いの証し−5 (最終話)

 2つの教会が見つかりました。
 1つは川越市にあった日本基督教団初雁教会、もう1つは志木市にあった日本基督教団志木教会。
 両教会共にホーリネスの信仰を持った教会でした。
 1999年の8月13日に教会を訪ねました。

 初雁教会には牧師の山岡磐先生、奥様の幸子先生がいらっしゃって私の話を聞いて下さいました。東京聖書学校の入学式の時に山岡幸子先生が証しされていましたが私をはじめて見た時、殺気を感じて身構えられたそうです。
 志木教会も訪ねましたが先生がお留守でした。私はホーリネスと言う言葉が気になったので愛媛の長内先生に電話をして聞いてみました。
 当時オウム真理教の出家信者にホーリーネームなるものがついていた事が報道でなされていたのでホーリネスとは危ない集団ではないかと思っていました。しかし川越で会った先生を見る限りそんな様子は見られない。
 ホーリネスとは一体何ぞや。長内先生に聞きましたら開口一番『大矢君には難しい、厳しい教会だ』と言われました。先生の本心はお聞きしなかったのでわかりませんが、私はその時辞めた方が良いと言われているように感じました。

 私は考えました。私を長い間祈り支えお導き下さった先生の言われた事だからどうしようか。しかし頭から大矢君には無理だ、と言われている様にも思え反発心もありました。
 無理かどうか決めるのは先生じゃない。俺だ。
 それに話をした限りで難しそうな、厳しそうな先生には見れなかったし、缶コーヒーを御馳走になった。現実問題夕礼拝をしている日本基督教団の教会で住まいから通える教会はここしかない。とりあえず缶コーヒーを御馳走にもなったから1度行ってみよう。

 1999年8月15日日本の敗戦の日の夕礼拝に初めて初雁教会を訪ねました。初雁教会には私のいる場所が感じられ、私の様な者でも必要とされている事を強く感じました。

 旅行会社に勤務していた時、会社に不満を持ち独立していった仲間がいました。
 その人達から一緒にやらないかと声をかけられました。思うように賛同者が集まらなかった様で私にも声がかかりました。
 私は断りました。
 私は尊敬をしていた上司から次の様に罵声をあびました。

 『お前の様に使いものにならない奴はいらない』

 このように言われた事が私の心の中に傷として残っていました。

 けれど、初雁教会には私の居場所がある。
 神様は仕事では確かに使いものにならない私ではあるが、その様な私にさえ場所を与えて下さり必要だと声をかけて下さる。
 私はこの神様を信じてこれからを生きていこうと思わされました。

 2000年のイースターに私は洗礼の恵みに預かりました。

 そして神様に全てを献げようとの献身の気持ちが与えられ、2002年4月に東京聖書学校へ入学が許されたのです。


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