■サマリアの女は主の愛に包まれて ヨハネ4:1〜30
2006年度卒業生 隅野 徹
(吉川チャーチ・ゴスペル・ナイトでのメッセージです。)
サマリアの女 (作詞 牟田みよ子、作曲 石井希尚)
♪サマリアの井戸のそば イエス腰をおろされ サマリアの女に声を掛けられた。
愛をもとめていた 裏切られて、人を憎んで…生きる喜びを忘れていた女だった
生ける水はあふれ流れ、決して乾かない…サマリアの女は主の愛に満たされ、変えられた♪
私が教会で歌う「ワーシップソング」のなかで最も好きなのが、いま歌詞をご紹介した「サマリアの女」という曲です。
この歌をご存じない方も多いと思います。この歌ですが、新約聖書ヨハネによる福音書の4章1〜30節に書かれた通称「サマリアの女」と呼ばれる箇所を歌詞にして歌っているのです。この箇所は長くて、初めて読まれた方は分かりにくかったかもしれません。しかし「サマリアの女」の歌詞は、長い1〜30節の話の要点をうまくまとめていると思うのです。しかも歌詞は1番しかなく、繰り返しもあるのですぐに覚えられます。ですから、「サマリアの女の歌」の歌詞と「サマリアの女の聖書の言葉」を照らし合わせながら見ていきましょう。
- まずはじめの歌詞 サマリアの井戸のそば、イエスは腰をおろされ…♪
この歌詞は聖書のほうの5・6節に主に書かれています。シカルというサマリア地方の町にヤコブの井戸という井戸があったようです。時間は12時。サマリア地方の12時というと本当に暑い盛りです。車のないこの時代、しかも馬車なども何も使わない旅は本当に疲れるものでした。しかもそれが日中で一番暑い時間になされたのですから、イエスは本当に疲れていました。また喉も渇いていたのでしょう…だから井戸のそばで腰を下ろされたのだと思います。
これを読まれている方の中には、あまりイエス・キリストがどんな方であったか聞いたことのない方もあるでしょう。イエス・キリストは神の一人子として、人間を救うためにこの世に来られたのですが、この箇所に書かれたイエス・キリストの姿からは私たち人間と同じ姿になられ、私たちが日頃感じる痛み・苦しみといったものを体験されていることが分かります。暑さ・疲労・のどの渇きという私たちも経験する苦痛と格闘しながらもなお進んでいかれるイエスの姿。神様であられる方が、私たちと同じ苦しみを味わい、私たちと同じ目線に立ち私たちのところに進んでこられるイエス・キリスト。ここではイエスが進んでいかれた先には「ヤコブの井戸」がありましたが、この井戸は町からかなり離れた位置にあったことが分かっています。なぜイエスはわざわざこんな井戸を目指して進まれたのでしょうか?ただなんとなく…なのでしょうか?そうではありません。ひとりの女性に近寄る、その目的のために、わざわざご自分の苦痛を顧みずに進まれたのです。
- 2フレーズ目の歌詞 サマリアの女に声をかけられた…♪
これは聖書の7節以下のところにそのやり取りが書かれています。いよいよサマリアの女とイエスが出会います。このサマリアの女とはどんな人だったのでしょうか?分かることを探っていきます。まず、井戸に水をくみに来たというその行為からですが、当時、重労働の水汲みは夕方の涼しくなってから行う習慣があったようです。しかしなぜ暑い盛りの昼間に女は来たのでしょう。また、町の中にも井戸はあったはずですが、なぜわざわざ町外れの井戸に来たのでしょう?
ひとつの答えとして、この女が「人目を避けていた」ことが考えられます。毎日を幸せいっぱいで過ごしている人が「人目を避け」こそこそ行動するというとは考えにくいです。この後で詳しく見ていきますが、この女には「心の傷」がありました。9節の「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」との言葉は、確かにその直後の説明にあるようなユダヤ人とサマリア人の対立もその背景になっていると思いますが、私は「私の事なんかほっといてください!」という気持ちがあったのだと感じます。しかしそんな心を閉ざしていた女に対してもイエスは対話をやめません。優しく・そして熱っぽく1対1で語りかけられます。ここから配慮に満ちたイエス・キリストの姿が読み取れます。
サマリアの女と同様に、私たち一人一人に「心の傷があるとき」…主イエス・キリストは近づいてこられます。そして1対1で対話をしてくださいます。たとえ私たち人間の側に「余計なお世話です。ほっといてください!」というイライラした気持ちがあっても、変わらず優しく接してくださる…これがイエス・キリストの姿だということを心に留めたいと思います。
- 3フレーズ目の歌詞 愛を求めていた。裏切られて、人を憎んで…生きる喜びを忘れていた女だった♪
この部分からは「サマリアの女」がどういう人物であったのかが歌われています。歌詞を細かく見ていきましょう
- 3フレーズ目の?@
愛を求めていた…16〜18節を見ると彼女には夫が5人いたこと、そしてその時点で一緒に連れ添っている男性とは婚姻関係になかったことが分かります。さあ、私達にはこの女を「異性関係が乱れた、悪い女だ!」と言うことはできるのでしょうか?私にはとても言えません。
この女性は寂しかったのだと思います。男性を次々に変えているその姿からは「誰かに寄りかかりたい!愛に包まれたい!」という思いがあると思います。私たちも多かれ少なかれこんな気持ちをもった経験があるのではないでしょうか?(私にはそんな経験がたくさんあります。)
- 3フレーズ目の?A
裏切られて人を憎んで…夫となった男たちといろいろあったのでしょう、また彼らと出会う前にもいろいろとあったと思います。もちろん裏切られたでしょうし、憎んだでしょう。12節のイエスに対する彼女の答えから、人間不信になっていることをうかがえます。10節でイエスは「私が生きた水をあなたに与えることができる」と言っているにもかかわらず、それをすぐに信じることができず「あなたは私達の父ヤコブより偉いのですか?」と返しています。これには「私たちサマリア人の父であるヤコブをバカにするな!あんた一体何者だ!」という思いがあったと思います。
- 3フレーズ目の?B
生きる喜びを忘れていた女だった…13〜14節でイエスは・永遠の命に至る水の話をします。これは物質的な「水」言い換えれば、飲んでもすぐに渇いてしまう水とは別のもののお話しをされたのですが、女は相変わらず物質的な求めをしています。15節の「主よ、渇くことがないように」との言葉も、「そんな便利な水があるのなら、大変な井戸くみもしなくてすむようになるから、早くください。」というニュアンスで出た言葉ではないでしょうか?はっきりしたことは言えませんが。
しかし分かること、それは彼女のやる気のなさ・喪失感です。「できるだけ楽をして残された日々を暮らしたい。周りの人なんてどうでもいい、自分さえよければ…」この15節までのサマリアの女の姿からはまさに歌詞にあるような「生きる喜びを忘れていた女」の姿を思い浮かべることができます。さて、皆さんには生きる喜びを忘れてしまった瞬間はなかったでしょうか? 15節までのサマリアの女の発言・行為などには、そうした思いがこもっていたように思います。
- いよいよ歌詞の中心である4フレーズ目を見ていきます。 生ける水はあふれ流れ、決して乾かない…
「生きた水」という言葉が出てきますが、これは女が思っているような物質的なものではありません。それではどんなものでしょうか?聖書の14節から分かることが3つあります。?@この水はイエスご自身が与えるものです。?Aその水が与えられた人の内で泉となって湧き上がり、涸れることがないということです。?Bそこから湧き出る水は永遠の命に至るということです。
さて生きた水が欲しいという気持ちになった女でしたが、このままでは生きる水を受け取ってもそれを泉としていくことは出来ません。泉を湧きあがらせるためには水が出るのを邪魔しているものを取り除く必要があります。そのためにイエスは「自分の悪いところを自分で告白すること」をさせます。
聖書の16節の言葉を見てみましょう。「イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われた」この言葉は一見唐突で厳しいものに感じます。しかし18節で分かるようにイエスには女のことはすべて分かっていましたが、「あなたの異性関係は乱れている!」とは言わず、あくまで自分自身の口で言うことを求めています。一方、女は事実を半分ほど隠したような言い方をしましたが、それでも主イエスは「ちゃんと全部話しなさい!」とは言わず「あなたの言ったとおりだ」と言われました。これには「よく話したね!」という意味もあったと思います。さらによく見てみると、周りには誰もいない1対1の環境で告白させていることもイエスの配慮の深さを感じます。
それにしても、全部が知られている…ということが分かった彼女はどんな気持ちだったでしょうか?私も「どうせ誰にも分からないから、悪いことしちゃえ!」と思ってやったことは数多いです。でもそういうことに限って、表に出て、結局反省せざるを得なくなったりすることが多かったです。そんな時「やっぱり神様は見ているんだな…、やっぱり隠れられないし、逃げられないな…」と思い悔い改めるのでした。サマリアの女も似た心境だったと思います。彼女にとって目の前にいるイエス・キリストは頼るしかないお方になっていきました。
そして女が頑なな心から素直な心に変わるという、そのことがあったあとで、イエスは「私を信じなさい!」といいます。信じる対象を「山」とか「エルサレム」とか形式的で目に見えるものだと思っていた女に「私を信じなさい。私が永遠の命に至る水の泉をあなたに与えることができるのだから」といわれました。サマリアの女が「目に見えるものこそ信じるべき対象」と思っていたように、日本の宗教でも信じる対象というと仏像だったり、神社のご神体だったり、目に見えるものであることが多いです。だから、キリスト教に対し「見えないものをよく信じることができるなあ」ということをおっしゃる方があります。しかしキリスト教信仰は「見える、見えない」とかいう次元ではなく、自分の内に神様が住んでくださるという信仰なのです。つまり自分の心のなかに私たちを愛してくださる神様を受け入れる、そして心の中から生ける水の泉が湧きでて、その結果、永遠の命が与えられるのです。4フレーズ目の歌詞の生ける水はあふれ流れ決して乾かない♪とあるまさにそのことがキリスト教信仰にはあります。もちろんサマリアの女の心の内にも同じ変化が起ったのです。
- 最後の5フレーズ目の歌詞を見てみましょう。サマリアの女は主の愛に満たされ、変えられた ・ ・ ・♪
自分の体内に泉があり、生ける水が次々に流れ出ているその状態はまさにイエス・キリストの愛に満ちた状態です。そんな彼女がどう変わったのか。それが顕著に分かるのが28・29節です。人目を避けて、必要に迫られて井戸に水をくみに来たのですが、彼女は水がめをそこに置いたまま町へ出て、人々にキリストのことを伝えていきます。その結果39節にあるように彼女の言葉から多くの人がキリストを信じるようになりました。これはものすごい変化です。
さて、サマリアの女の歌詞から、聖書に書かれたことを説明してきましたが、お分かりになりましたか?最後に私自身の話をさせてください。私がクリスチャンになるまでの歩みはこのサマリアの女に似ているところがあるのです。
私は小学生のとき、たまたま家の前に捨てられていた教会学校の案内を拾ったことで教会に行くようになりました。でも特に必要に迫られたわけではなく、ただなんとなく行き始めたのです。その直後、人生最大の試練が襲ってきました。一家の大黒柱だった公務員の父が、仕事上のストレスを苦に、自ら命を絶ってしまったのです。その出来事の後、多くの人がとても優しく接してくださいました。しかし多感な時期だった私は「あの人のお父さん自殺しちゃったんだってね!可愛そうに…」と陰で言われているとしか思えませんでした。そして次第に人目を避けるようになり、グレはじめました。そして自暴自棄になっていき、小さな頃描いていた夢もいつしかどうでもよくなっていました。また寂しさを紛らわすために友達とつるんで悪いことをしていました。悪い…とは分かっていながらも、誰かといっしょに何かをすることのほうが大切だと思っていました。教会の先生からしつこく誘われたので、仕方なく、たまに教会へ行っていましたが、真剣に求めることは全くありませんでした。ちょうど、イエスが近くに来られたにもかかわらず、イエスを軽くあしらっているサマリアの女のようでした。お祈りも自分のこと以外したことがありませんでした。「貧しいうちの家族がなんとか裕福になれるように」とか「テストでいい点がとれるように」とか…それこそサマリアの女がイエスに「そんな便利な水があるのならちょうだい!」というような感じの状態でした。
そんな私もどうにか大学に入ることができ、親元を離れ一人暮らしをはじめましたが、その直後に人生の大きな転機を迎えました。生まれ故郷を離れ、友人が誰一人いなくなった私は寂しさの中にいて「何とか、友達がほしい」と思っていました。そんな時「クリスチャンの大学生が集るキャンプに出てみないか?」との誘いがありました。友達が欲しい!その一心でキャンプに出席した私でしたが、ちょうどそのキャンプでこのサマリアの女の箇所を読んで大きな変化が起りました。それは、どんなことがあっても決して私のそばを離れない主イエスの愛に気付いたことでした。それまで私は、教会に行くキッカケとなった「捨てられていた教会のチラシを拾ったこと」を単なる偶然だと思っていました。ところが、弱さの中にあった私を、そして私の家族を救うために、主がわざわざ苦労してきて近づいてきてくださったのだ…と気付かされたのです。しかも私が「サマリアの女」のようにソッポを向いていたにもかかわらず主は熱心に私を招き続けてくださったのだ…ということも。その愛を知ったとき、私は主イエスの前に悔い改めるしかありませんでした。「自分が不幸だからとかそういう言い訳をして、さんざん悪いことをしてすみません。でもあなたがそんな汚い私の罪を十字架の死で贖ってくださったのですね。そのことを信じます。」そして、自分の中にイエスを迎え入れたとき、心の中にオアシスのようなものが出来てきたのを思い出します。それから洗礼を受けて生まれ変わった私はイエスの愛を人に伝えることになによりの喜びを感じるようになり、今このように神学生として学んでいます。
思えば、転機となった大学時代のキャンプへは「友達が欲しい」という寂しさがキッカケとなっていました。しかし主イエスを受け入れたその後、寂しいとは全然思わなくなりました。また人目を避けていた自分が、父の自殺や私の反抗期の経験など「自分の過去の辛いこと」を出してまで神の愛を伝えることをしようとは夢にも思いませんでした。まさに、人目を避けて水をくみに来ていたサマリアの女が、水がめをそこに放り出してイエスのことを人に伝えようとしている姿と似ているのかなと思います。
以上、このように「サマリアの女」の歌詞と照らし合わせつつ見てまいりましたが、いかがだったでしょうか?サマリアの女や私に対して、愛をもって、ずっとそばにいてくださった主イエス・キリスト。復活されていて目には見えないかもしれませんが、皆さんのすぐそばにいつもいて愛し続けていてくださいます。たとえこちらが頑なで拒むようなことをしても、それでも変わらずに愛し続けてくださり、永遠の命に至る生ける水を与えようといつも待っていてくださいます。そんな主イエスを心の中に受け入れるとき、私たちはすべてを受け入れる本当の愛によって満たされます。そしてその愛はあふれ出て、家族や友人、職場や学校で出会う人たちが主イエスの愛に触れて、同じように命を与えられていくのです。もう一人ではない、主イエスはいつもいつまでも共にいて、愛で包んでくださいます。それが永遠の命、主イエスとともに輝いて生きるということです。この「命の水」は今あなたに差し出されているのです!!ぜひこの命の水を飲んでみてください!!